2008年03月14日

大崎善生『九月の四分の一』(新潮文庫)


九月の四分の一
著者名:大崎善生(著)
出版社:新潮社
出版年:2006.02
ISBN :9784101265711


以前取り上げた『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』という短編集の中に、
「キャトルセプタンブル」という短編があった。
女性の視点から書かれていたその作品の対をなすのが、
表題作「九月の四分の一」。
この題は、主人公の男性が〈キャトルセプタンブル〉を、
〈クオーターセプテンバー〉つまり〈九月の四分の一〉と誤解したところからきている。

ほんとうの意味は、〈九月四日〉。パリにはそんな名前の駅があるらしい。
〈新宿〉とか〈荻窪〉とかよりは、いい。
あと〈九月の四分の一〉という響きも。
そんな風に、時間や季節や思いを切り取れたならいいな、なんて思う。

二人は偶然、ブリュッセルの広場、グランプラスで出会った。
そして六日間、時間を共にした。六日間、のみである。
そして「九月四日で会いましょう」と残して彼女は姿を消した。

彼女は九月四日という日付とパリにある〈九月四日駅〉をかけていたから、
「九月四日≪で≫会いましょう」といったのだが、
男は気づかぬまま、九月四日にグランプラスで待っていた。
この素敵な誤解がすべてであって、二人は二度と会えない。

男は、六日間を振りかえって、「実存主義的な恋」といっている。
そこには目的も用途も、もちろん設計図もなかった。
ただ、気がついたときには恋心だけがポンと存在していた。(pp.213-214)

「実存主義」という言葉を正確に使用しているかどうかわからないが、
六日間の淡い恋は、崩れ、失われたビルに似ている。
「二度と戻ってくることはない。ただ、残像が残っているだけである。(p.231)」
設計者が当初企図していたような機能ではない、想定外の美しさ。
ビルが壊された後にも、感じることのできる、感慨。
このような消えることのない余韻の中で、二人は生き続けることになる。

切なくて、哀しい話であるが、それは心がどんよりと曇るわけでもなく、
心に強烈な痛みが走るわけでもなく、あくまで静かに穏やかに、
まるで「深い湖の底にいるような静けさ(p.233)」。

道具立てがとても好きなものばかりだったので、とても響きました。
結局は、前回と結論は一緒。こんな素敵な思いにはなかなかなれないでしょうね。

ただ脳内か心の内か知らないけど、そんな安らげる場所がほしいものです。
ちっぽけでも淡くてもいいから。
静かに、素敵な記憶の残響を聞いてみたい、なんて思ったりする。
posted by より at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 大崎善生

2008年02月20日

大崎善生『ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶』(新潮文庫)


ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶
著者名:大崎善生(著)
出版社:新潮社
出版年:2007.12
ISBN :9784101265728


本書は四編からなる短編集。
登場する人々は、想いを馳せる。
自分の知らない世界へ、どこか遠くの国へ。
その対象はハンガリーの空であったり、
若かれし母のパリでの恋心であったり、
遠くに住んでいる父であったりする。

実際に見ることのできない情景、
味わうことのできない感情、
出会うことのできない相手。

たとえ、これらが手の届かぬものであっても、
目を閉じたなら、触れることが、感じることができるような気がしてくる。
そんな小さくて脆い想いは、日々の生活において、
大切な心の支えになったりするのである。
ささやかだけれども、心の最も奥の方で優しく手を差し伸べてくれるのだ。

特に気になった短編「キャトルセプタンブル」に触れると…
20年以上の前の、それもたった六日間の恋が、
今でも温かみを伝えてくれている。
恋の当事者もちろんのこと、その女性の娘にもその思いは伝播して、
彼女をゆっくりと再生へと向かわせてくれる。

母が娘にその恋について語るシーンがいい。

9月4日にキャトルセプタンブルという駅で母は男を待っていた。
しかし男は訪れなかった。何時間も待ち続け、彼女はこう思った。

「…キャトルセプタンブルというあの駅を囲んだ広場自体が、私を立ち直らせてくれた彼のおおらかさや優しさそのものなんだと。あの空間にいけば私はいつでもそれに触れることができるんだって。あのときに抱いていた私の淡い恋心もそのまま、彼を待ちながら青の空間の中に漂っている。いつまでも」(p.32)


こんな素敵な気持ちは普通ないだろうな。
でも、こんな支えが必要な暮らしとは、辛いものなのだろうな、と考えてしまう。

いつも思うのだけど、なくなった人間をいつでも忘れないということは、
それだけ顔の向けられた方向が後ろだったりするわけで、
本当に生を謳歌してしまったら、思い出すことは
だんだん少なくなっていくのが、人間だろう。
残酷でもあるのだが、生物であるのだから仕方ない。
ぼくが単純なコンピューターで出来ていたのなら、
故障するまで待ち続けてしまうに違いない。

彼女が20年以上も前の思いに浸ってしまうのは、
現実の厳しさ所以だとおもう。

だけど、不器用にしか生きれなくって、
すぐ俯いてしまいがちのぼくには、じんわりと胸にしみます。

ぼくの頭の中では、ある流行歌が小さく響いていました。

忘れたい でも忘れない こんな想いをなんと呼ぶのかい

そういうことです。
posted by より at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 大崎善生

2008年02月11日

大崎善生『別れの後の静かな午後』(中公文庫)


別れの後の静かな午後
著者名:大崎善生(著)
出版社:中央公論新社
出版年:2007.09
ISBN :9784122049079


なんとなく食わず嫌いしてきた作家のひとり。
「パイロットフィッシュ」とか「アジアン〜」という、
ぼくにとってはわけのわからない単語で、
そうした題名の横文字加減が敬遠していた理由のように思える。
さらに、一般受けしている、という事実もひねくれ者からすると、
ふん、と顔を背けたくなるのですが…。

けっこう題名は大事だったりするのです。
本屋ブラリが好きなぼくのような人間には、それが本との出会いになったりする。

ちょうど個人的に感傷的になりがちで、
以前のものに比べ、穏やかな題名に食指が動いた今日この頃。
初めて読みました。

彼の十八番であろう喪失感を伴った恋愛ものの短編集で、
すんなり読めた、というの率直な感想。
ぼくは偏見をもってて、読むのがつらくなるような、
おセンチでクサイお話かと思っていましたが、
手にしてみると、真面目な顔で真面目に物事を語ることが、困難な今日においても、
嫌な感じやら、気恥ずかしさなしに読めた。
これすごいことだと思う。

どっかで大崎さんは村上春樹を読んで読んで、旅先で買うから、
何冊も同じ作品をもってしまっていると言っていた。
だから村上春樹的デタッチメントの傾向があるのかとおもったけど、
そんなことなくて、春樹のような神話的世界観などもなくって、
社会との間で共生して、ひねくれもせず、純粋に恋愛を描いているのだなぁ、
と僕なんかは思いました。

それは、文学的な要素が少ない、ということを意味しているのかもしれません。
深遠なお悩みですとか、社会との衝突ですとか、
そういった鬼気迫るようなものはありません。

本当にどこにでもいるような男が、恋愛をして、悲しんだり、立ち直ったり
するだけのこと。それだけです。
でもその平凡さだったり、ありきたり感が
とてもリアルで、転職をきっかけに別れるとか、結婚についての争いとか、
友人から話を聞いているような現実感があります。
ただそんな姿勢に、ぼくは好感を抱きました。(著者にとっては心外かもしれないけど)


文体は、「静謐」とは「透明」とかそんな言葉で言い表されることが
多いよう。
ぼく自身感じたのは、乾いた文章でもなく、少しばかり水分を含んだように瑞々しくって
しっとりしたとしたその手触りは、頁をめくる手が自然と動かされているようでした。
なかなかユーモアのある比喩を使ったりもします。
「アメリカの大統領のように強引に?(p.238)」とかなかなかいいもんです。

作品ではなく、大崎自身についての感想になってしまいました。
もう少し挑戦しなくてはなりません。
posted by より at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 大崎善生