2008年03月03日

水上勉『越後つついし親不知,はなれ瞽女おりん』(新潮文庫)


越後つついし親不知,はなれ瞽女おりん
著者名:水上勉(著)
出版社:新潮社
出版年:2002.08
ISBN :9784101141299


「越後つついし親不知」は、少々先が読めてしまったけれど、
水上さんらしい儚くも美しい市井の女性のお話。
古臭いと言ってしまえばそれまでだけど、
忍耐強く、献身的な女性が、悲劇的だと、胸がつまる。

男性も慎ましやかで、職人気質で、不器用だから、
なんでこんなに必死で生きている人たちが苦しまなくってはならないんだ、
と不条理なストーリーにホロリときてしまうのだろう。

前に取り上げた「越前竹人形」を短くしたような、薄めたような感覚
にとらわれてしまうのだが、水上らしい作品であることの裏返しでもあるのだろう。

「はなれ瞽女おりん」は、またよくって
彼の求める或いは描きたい男女の関係っていうのが、
また違う視点で描かれていて、しばし悩んでしまった。

おりんは、すぐに寂しくなって、見ず知らずの男と身体を重ねてしまう。
盲目という不自由な体のせいで、そうした外部からの圧迫を退けることが
できなくなるのであろうけど、あまりに純粋であるがゆえに、
道徳も理性もなく、ただただ人の温かみほしさに、体を許してしまうのだ。

けれども、偶然出会った岩淵は違った。どんなにおりんから近づいていっても、
抱こうとはしない。それどころか、少し距離を置くことで、
おりんへの愛を持続させ、強めている。

まるで兄と妹のように、仲睦まじく、
貧しいながらも必死で生活をやりくりしていくのだった。

盲目という設定、その女を献身的にささえる無骨な男。
わかりやすいんだけど、ほんとうにいやらしい感じでもあるんだけど、
だからこそともいうべきか、純粋な美しさ漂う仕上がりになっている。
ここら辺は、水上さんゆえの魅力なのだろう。

とか言ってもやっぱり理由は分からないのだけど、わかるなぁ、とか勝手に思う。
あんまり深く考えたくないが、岩淵とおりんの関係ってとても素敵だと思う。
また水上作品の定石である、強姦が起きてしまうことで、二人の関係は
壊れてしまうのだが、なんかとても悲しい気持ちになって、また作品に没していくのだ。

じめじめとしていて、風通しの悪い日本文学的性格を
強く持つ水上文学は、時に読むのが辛くなるのだけれど、
もう少し彼の描く関係性を知りたいなぁ、と思った次第です。
posted by より at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 水上勉

2008年02月09日

水上勉『雁の寺,越前竹人形』(新潮文庫)


雁の寺,越前竹人形
著者名:水上勉(著)
出版社:新潮社
出版年:1969.03
ISBN :9784101141039


水上ほどの作家となると、京都弁、娼妓などの材料が、
どうしてこうも妖しく美しい悲哀へと変わっていくのだろう。
本書に所収されている「越前竹人形」は、いわゆる「日本文学」的な系譜の中に、
位置付けることも可能であろうまでの、そうした美しいくも悲しみある作品となっている。
(この作品が、晩年の谷崎に好まれたところからも、
そうした傾向を導くことも可能だろう。
ただし個人的には贔屓にしている川端を思い出したのだが…)

主人公の喜助は、作者によって体にコンプレックスを抱えさせられ、
醜い身体が強調されている。
そんな異形の男は、その手から生まれる芸術的工芸品と、
それらの創作の源となっている竹の精、すなわち玉枝とに囲まれ
コントラストを効果的に表現している。

聖と俗、美と醜、そうした典型的、古典的ながらもしかし魅力的な構図が
成立しているように考えることもできるだろう。
玉枝自身、娼妓としての醜く汚れた身体が、
精神的、神秘的ともいえるほどの美しい容貌を備え、聖なる娼婦として、
その二対を併せ持った極めて魅力的な存在になっている。

ただ、実際のところ、かなり前ではあるが、お昼のメロドラマの枠で放送されていたそうで、
物語の筋としては、どろどろとした通俗性をもっていることもたしかであろう。
(少々強引ともいえそうな、終盤における玉枝の死もそういった一面であろう。)

けれども、ここに描かれるテーマ「母性的なもの」は、文学的なモチーフとして
働いていて、父親(喜左衛門)が愛した人間(玉枝)を、しかも娼婦を
その息子(喜助)が求める姿を書くということは、
永遠に結ばれえない関係性を描くことである。
さらに、無理やり心理学っぽくいうなら、
その関係性は、第三者によって、繰り返し去勢=断絶
され続けられなければならないことをも意味するであろう。
事実、玉枝の身体は、忠平の誘いを拒むことができず、
その一回の過ちが、妊娠という母親としての機能を動かしてしまうのだ。

それを知らない喜助は、変わることなく母性を玉枝に求めるのだが
その姿を見る(読んでいる)と、とってもつらい。

まぁ、そんな陳腐でつまらない理論構成は、どうでもいいのであって
とにもかくにも読後には、なんとも言い得ぬ
鈍重な悲しみがいつまでも離れないのでした。

彼は日本海にゆかりのある作家らしいです。
偶然ぼくは日本海の雪国で生をうけているので、
他の作品も挑戦したくなってきました。。。
posted by より at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 水上勉

2008年01月22日

水上勉『壺坂幻想』(講談社文芸文庫)


壺坂幻想
著者名:水上勉(著)
出版社:講談社
出版年:2008.01
ISBN :9784062900027


水上勉の本はじめて読みました。
彼についてはよく知らず、仏教系の本とミステリアスな作風かと思っていたのですが、
さすが講談社文芸文庫という感じで、極めて純文学的?な作品でした。
本作は私小説的な作風で、家族、親戚など彼を取り巻く人物を描いたものです。
エッセー的とも言えますが、その視線の先には遠く昔の記憶があって、
するりと読者もその世界に誘われていきます。

既に亡くなっている水上の小さな頃ですから、その時代は僕にとっては異界で、
また舞台となる日本的な土俗的地方の姿は、我々との繋がりを見出すには難しいほどに、
遥か遠くのお話に聞こえます。作品を彩るのは、仁丹、みかん水などいまはなきものです。

しかし、各作品の中心点はあくまでも、現在であり、
そこには截然と線が引かれるのでもなく、ただ想起されるがままに、
彼の精神は現在と過去とを行き交い、特に表題「壺坂幻想」などは、
行間から郷愁と哀感がほのかに漂っています。

また当然のことながら、時間的のみならず、
水上=私という一つの主観的観点から物語は描かれ、
他者への解釈を挟まぬその筆致は極めて抑制的なものに思われます。

すでに未来を予見している神からの視点でもなく、
失われてしまった過去を切なく振り返るのでもなく、
むしろ冷徹とさえ感じられる視線のまま語られていくので、
少々悪人気どりともいえるほどの印象を読者に与えます。
そのため安易な感情移入を許されることなく本を閉じました。

しかし、身辺を丁寧に書いたこのような作品を読んでいると、
長い記憶によって形成されてきた「私」を深く掘り下げるような
地道な作業を見ているようでした。

人間にとって、「晩年」というものがあるのならば、
この作品はそれにふさわしいもののひとつであろうかと感じます。

もう少し水上勉のことを読みなくてはなぁ、と思いました。
posted by より at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 水上勉