2008年04月16日

遠藤周作『砂の城』(新潮文庫)


砂の城
著者名:遠藤周作(著)
出版社:新潮社
出版年:1979.12
ISBN :9784101123127


これまた青春もの。
ある女の子が成長していって、その周りの人々もそれぞれの道を歩いて行く。
それぞれが自分の道を信じて、頑張るんだけれども、
一番仲のよかった女友達は、恋愛に突っ走って、
いつの間にやら塀の中。
ほのかな恋心を抱いた男性は、ある思想に染まって
その活動に必死。

ちなみに、砕いて書いているから、ゆるゆるだけど、
遠藤周作だから軽い小説でも、真面目でしっかりとした話。

本題「砂の城」は、主人公が、友人たちと観た海外線の風景。
まだ大学生で、舞台である長崎から離れるとはつゆも考えていなかったが、
これからの彼らの青春を表すのが、「砂の城」。
崩れるとは分かっていても、必死に砂をかき集めて築くもの。
城という、一つの立派な理想を実現するために。

帯には、わかりやすいキャッチフレーズ。

憧れは裏切られ
理想は傷つけられる
それでも人は生きてゆく


はて。青春とはそのようなものなのか
個人的なことだけど、最近友人に
「若いころからその落ち着きだったんでしょ?青春なさそうだよね。」
といわれ、
「ちゃんとありました」
と答えた。

だけど、ここで言ったぼくの青春とは、不毛な遊びに精を出していた、という意味。
憧れに向かって、理想に燃えて、汗かいたかと言われれば、
むしろ冷ややかであったわけで、友人の言葉もあながち間違いでなかったわけだ。

本当は、本作の登場人物のように、理想に燃えて、
もがいて苦しんだ姿こそ、素敵なはずで。
青春だよな、とか思う。

なんだか、太宰の言葉を思い出す。
大人とは裏切られた青年の姿である
(正確でないかもしれないし、出典は記憶なし)とかいってたよな。

主人公の心の中では、亡き母のいっていた
「美しいものと、けだかいものへの憧れだけは失わないでほしいの」(p.49)

という言葉が、常に響いていて、その通り生きている。

美しいものとか、けだかいもの、とか
今の時代じゃあ、気恥ずかしい響きをもつもの
かもしれないし、自己満足だったり、
美しいという基準さえあやふやだったりするけれど、
そういう志をもってて悪くはないな、とか思う。

なんか疲れているせいか、思ったことの羅列になってるなぁ。
でも、それくらい色んなことを自分に照り返して考えてしまうような本なのです。
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2008年01月28日

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)


沈黙
著者名:遠藤周作(著)
出版社:新潮社
出版年:1981.10
ISBN :9784101123158


あまりに濃厚で味わい深くて、噛み砕くにも噛み砕けない。飲み込むにも飲み込めない、そんな滅多に出合うことのできない上等な文学作品。

本当に人気がある作品みたいでアマゾンのカスタマーレヴューだけでも今日現在で65件!
そこを見れば話の筋も大事なとこもわかるはず。偉大だね。

簡単にいえば、キリスト教が許されない時代の話。そこにポルトガルの司祭が、危険を顧みず布教のために日本へやってきた。そんなこんなでって話。

キリスト教を信仰している方たちも、歴史に興味がある方もそれぞれ言い分はあるみたいです。毀誉褒貶、種々雑多。

僕が気にするのは、僕自身の問題。それに重ね合わせた遠藤の問題。
キリスト教だから、日本人だから、西洋人じゃないから、とか
けっこう大事だけど、もっと大事なことがある。

「神」っているの?てかそれなんだ?

答えを出すのは難しい。いや答えなどない。

でも、
なんでこんな不条理な世界で、そんな世界を創ったようなお父さんが叱ってくれないのさ?
そんな悪いやつらやっつけてくれればいい。
そんな嫌なこと吹き飛ばしてくれればいい。
何にもしてくれないなんて、「沈黙」したままだなんて
そんなの違うはずだよ。

とか、思う。

じっさいこれは結構深い話でもあるはずだが、でもそれは置いといて…

以前取り上げた『私にとって神とは』(光文社文庫)で確か私の神に対する考えをロドリゴに語らせた、というような主旨の発言があったと思う。(信仰に対する疑いについても幾度となく語っていた)

そんな偏見もあって、僕は真摯に「信仰とは?」「神とは?」と問い続ける強いロドリゴも
すぐに裏切ってしまう弱いキチジローも遠藤自身の一つの側面なのかな、
と思って読んだ。
そしてその構図を自分にもあてこめて読んでいた。
そしたらある程度共感した。いい話だった。

遠藤のその切実な思いが、きわめて完成度の高い物語にのせられていて、(解説者の言うとおりとっても)展開はドラマティックで、読者を休ませることなく本に釘つけにしてしまうのである。

「神」は「働き」だった。背中を押していた。私の人生の現れでもあった。
納得できないかもしれないけど、そんなことをいっているようだ。

でも僕なんかが気にしてしまうのは、
ロドリゴが棄教=転んで、その後日本人として生活するの姿とかで、
ちょっとでも想像すると、
なんとも痛々しい光景ではないでしょうか。
なんとも切ない話ではないでしょうか。
泣ける話ってわけでないけど、
そういう真面目ゆえの暗い一人の男の人生って共感してしまうんだよな。
中途な切実さではないのだ。

疲れているのもあるし、いろんな人が、かたっ苦しく感想書いているので
崩壊空転した文章になりました。

でも作品はとっても本気です。マジです。
生半可な気持で読んではいけない偉大な作品です。
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2007年11月29日

遠藤周作『「深い河」をさぐる』(文春文庫)


深い河をさぐる
著者名:遠藤周作(著)
出版社:文藝春秋
出版年:1997.03
ISBN :9784167120207


遠藤周作が、科学者などの学者を中心に(もっくんと横尾忠則と木崎を除く)対談をして、ニューサイエンス、ユング心理学など、少々眉唾物について対談したものをまとめたもの。
お話は、サイババの奇跡、ユングの共時性、横尾のチャネリング体験(!?)など多岐にわたりすぎて、怪しい世界へと誘い込んでくれるトンデモ本です。

題名につられて手に取にとった僕からすると、むむっと首を傾げたくなります。
というのも、『深い河』について関係がある部分は本当に少しだけだから。

〔そもそも『深い河』以後の対談は、巻頭の本木雅弘とのものだけで、他は様々な機会のものをよせ集めたもの。〕

正直、どれだけ遠藤周作が本気になってお話をしていたのかも疑問になる位、胡散臭い話で満ち満ちているが、このような悪口ばかり書いていても、意味はないので、考えたことを少々書くと……

(変な話だが、一番興味深く読ませてもらった)解説の「余談『深い河』――解説にかえて」の中で加藤宋哉が面白いエピソードを紹介している。

 ある時、遠藤が加藤に、「カミさんを悦ばせる言葉というのを、加藤を言ったことがあるか」と彼に問うたそうだ。
そしてその解答として、落ち着いたものが以下の言葉である。

――こんど生まれてきてもお前と一緒になるだろうな、とボソリとつぶやくこと。(p.229)


と、遠藤は言ったようである。しかも後日、ためしに遠藤は妻に向けてその言葉をは発し、実際成功したというエピソードが挙げられている。

これは、『深い河』のテーマの一つであった「輪廻転生」についての発言である。どうしても磯辺の妻が死に際に残したうわ言に重なってしまう。
加藤も解説で言っているが、僕が『深い河』を読んでいて感じた疑問として、どうして遠藤の心にキリスト教の考えに反する「輪廻転生」がひっかかっていたのか、ということがあった。

しかし、このエピソード聞くと、少々浅はかな解釈であろうが、それは、妻という身近でかつ一番大切なものへと語られる、秘められた愛の言葉だったのかもしれない、などと思った。
また作中では、妻が磯辺という男に対して発する言葉であるが、遠藤自身が言われたい言葉だったのかもしれない、などと勝手なことを想像した。

ただ、結局のところ、この本はあまりためにならなかった、ということで結論づきそうです…
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2007年11月20日

遠藤周作『私にとって神とは』(光文社文庫)


私にとって神とは
著者名:遠藤周作(著)
出版社:光文社
出版年:1988.11
ISBN :9784334708474


『深い河』を読んで、彼の「神」への考えがいまいち理解しきれなかったので、本書を手に取ってみた。直球のタイトル買いです。

『深い河』においては、神は働きのようなもの、と興味深い表現で語られていた。
それは、通常「神」として語られるものとは、少々違うものであろう。

遠藤の場合、ヨーロッパのような「してはならぬ」と命令する厳父的な<神>でもなく、実体的な一者としての<神>なのではなく、日本人的アレンジが加えられた汎神論的、母性的な≪神≫である。

なかなか馴染みやすい「神」のように思われる。

しかし、小説からのみでは、僕のような凡夫には、いまいち理解しきれぬものであったので、本書のようなエッセイを手にしたわけだ。
つくりとしては、遠藤に素朴な質問を直接ぶつけて、平明な言葉で分り易く語ってもらう、というもの。テーマは表題のまま「神」ではあるが、仏教とキリスト教の比較やキリスト教に対する解釈についてなど、気軽な気持ちで読める良書であると思う。

馬鹿の僕なりに、いくつか気になった部分を抜き出してみます。

神を疑ったことがないかと言われれば、決して否定することなどできません。(…中略…)信仰というものは九十パーセントの疑いと十パーセントの希望だ、と言っていました。それこそある時期の私の心を語っているような気がします。(p.5)

たぶん私は、母親に対する愛着が非常に強い男なものだから、母親が一所懸命だったものをむげに捨てるというのは、母親に対して申し訳ないという気分が、どこかにあったのです。(p.10)
私が神の存在を感じるのは、今日まで背中を何かが押してくれてきたという感じがまずするからです。(p.21)

私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。(p.22)

こうした遠藤の考えは、『深い河』における大津とまさに重なり合う。神は他人を通して、また自分を通して我々に「働き」かける。そうしてわれわれは生かされている。

神秘的な、非実体的な「神」というのは、心理学でいう「集合的無意識」と同じようなものだ(「神の働き」は「玉ねぎ」でも「X」でもかまわないのだ)。

色々頭が悪くて理解できないのだが、そうした我々の中に溶解し、知らぬ間に知らぬ間に我々を突き動かしている「神」を考えていくと、神秘的でかつ運命論的な、見えない「力」を考えてしまって僕は少々考え込んでしまう。
また、果たしてそれが我々を何らかの方向へさし向けているのか、いやそれとも気紛れになるように、なすがままにしているのか、すぐさま答えをほしがる僕は、「神」の思いを問いたくなるのである。 

遠藤によれば、「愛」という一言に尽きるであろう。世の中で起きる犯罪はもちろんのこと、我々が日々犯す間違いも「神の働き(=愛)」の現れの変奏にすぎないわけで、今ぼくが悩み苦しむ過ちも、悔い改めるためれば、救われるのである。

では、なぜキリスト教なのか?

それはあたかも親によってあらかじめ決められた許婚との結婚のように、彼にはキリスト教を信仰する場が設けられていたにすぎないのだという。

この正直な感想は、理解しやすくていい。もちろん仏教を信じるには難点があることも言及するわけだが、謙虚な姿勢に僕は好感を抱く。

キリスト教にこだわらず、仏教でもイスラム教でもヒンドゥー教でもいいのだ。

彼によれば、「まず心の奥底(阿頼耶識)の中にある自分というものをよく見つめることが出発点(p.209)」なのだ。

 僕はひねくれた考えの持ち主だから、そうも簡単に宗教へと足を踏み入れたくない。「宗教」の力が偉大であることを理解しているからこそ、その様な強いものに頼りたくない、などといいたくなるのだ。

でも、遠藤が優しく語る「神」は、
(論理的に理解できるかは置いといて)
魅力的で、信じても悪くないな、などと勝手なことを考えるのでした。

長くなってきたからそろそろやめよう。
ともかく本書は、小説と違った方向から遠藤に近寄れる面白い本だと思います。
 
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2007年11月17日

遠藤周作『深い河』(講談社文庫)


深い河
著者名:遠藤周作(著)
出版社:講談社
出版年:1996.06
ISBN :9784062632577


遠藤周作の代表作ですよね。映画化もされているし、彼が70歳を超えてから書いたそうで、彼自身の希望により、もう一つの代表作『沈黙』と共に棺桶に入れられた作品だそうです。遠藤周作をよく知らないにもかかわらず、エッセイだけ取り上げてしまったので、本流の小説を読もうかと取り上げました。
 で、実際本を手にしてみると、平日は仕事で時間がないのですが、それでもグイグイ引き込まれて三日間で読破しました。読みやすいのもあるのだけど、なにより話が面白いからなんでしょう。
 大まかに言うと、複数の人間の目から、多元的に語られる物語でして、インドへのツアー旅行に参加した人々が、各々複雑な思いを抱え、ガンジス河へと向かう、という話です。
 
既に読んでいる、またこれから読まれることを前提に、話の内容は置いておいて、僕自身の考えたことに絞って書きます。

まず、小説の複眼的な構造が効いていることです。各登場人物が遠藤周作の分身として動いていて(彼の個人的体験に重ねられる部分が少なくない)、それぞれが興味深い問題に直面しています。
一人一人の過去の体験や思いが、独立した章ごとに語られ、現在系でガンジス河を臨む彼らの姿の背景となり、単純な僕のような人間は、すぐさま思い入れしてしまうわけです。ガンジス河に辿り着いた時には、全ての思いが入り乱れ、密度が濃くなってしまいそうなんですが、ガンジス河という聖なる河はすべてを飲み込んで、カオスはカオスのまま、物語と共に流れていくのでした。
これら作者の巧みな手法が、物語の厚みを増して、読み応えのあるものになっているということに感服した、というか感服することも忘れて、読みふけりました。

そして、やはり遠藤周作の最大のテーマ「神(作中は、登場人物の大津に「玉ねぎ」と言わせているのがなんともいい)」の深さでしょう。遠藤周作本人がそうであったように、日本人でありながらキリスト教という馴染みのない洋服を着せられ、それをどうにか自分に合うように仕立ててようと努力する大津は、まさに作者の姿に他ならないでしょう。

「神は存在というより、働きです。玉ねぎは愛の働くかたまりなんです」(p.104)

神学校の中でぼくが、一番、批判を受けたのは、僕の無意識に潜んでいる、彼等から見て汎神論的な感覚でした。日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。(p.191)

少年の時から、母を通してぼくがただ一つ信じることのできたのは、母のぬくもりでした。(…中略…)大きくなり、母を失いましたが、その時、母のぬくもりの源にあったのは玉ねぎの一片だったと気がつきました。(p.192)

現代の世界のなかで、最も欠如してるのは愛であり、誰もが信じないのが愛であり、せせら笑われているのが愛であるから、このぼくぐらいはせめて玉ねぎの後を愚直についていきたいのです。(p.193)

もっと引用したのですが、少々しつこいのでこれくらいにしますが、遠藤周作自身の「神」に対する考えが極めて直接的に語られているのではないか、とおもいながら読んでしました。

 母性的で汎神論的な神、これらは、少々キリスト教の厳格な一神教的側面にはそぐわない考えでしょう。実際これらの考えを持つ大津は異端児として追放されてしまうわけです。

 また、神が「働き」といわれてもピンとこないのも正直な感想ですが、しかしながら、大津の愚直でひたむきな姿は、現代的感覚を備えた美津子になにか訴えていたように、読者の僕にも何か突き付けるようでした。「神」は個人的にも(もちろん人類的にも)大きなテーマなので、他の彼の著書を参考にして、また取り上げたいな、と思います。

そして本作中、ぼくが個人的に一番入れ込んでしまった人物に、磯辺という男がいます。彼は先に命を絶たれた妻の生まれ変わりを探しにガンジスにやってきます。結局というか、もちろん妻に会えるわけではないのですが…
「転生」などいうと、そんなの死んだらわからないじゃないか、とぼくは馬鹿らしく思ったりもします。しかし、そんな胡散臭い話も、本当に愛するものとの話であれば、死んでもまた会いたい、一緒になりたい、という気持ちになるのもわからなくありません。世の真理がそうである、ということではなくて、そう信じたくなるのです。もう一度、と。
そんな磯辺の話に僕は感傷的気分になってしまいました。切ないですね。

あまりに長くなってきたのいいかげんやめようっと。
とにかくお奨めの作品です。
posted by より at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤周作

2007年11月12日

遠藤周作『恋愛とは何か』(角川文庫)


恋愛とは何か
著者名:遠藤周作(著)
出版社:角川書店
出版年:1972.02
ISBN :9784041245057


今日も第三の新人読みました。
遠藤周作は十代の乱読期に二冊読んだ、気がする。
『海と毒薬』、『白い人・黄色い人』が実家の本棚の奥深くにあるのではないか。前者はわけもわからず、後者は面白かったが、次の作品を読もうという気にはならなかった。

比較的避けてきた作家といえよう。その理由の一つに、エッセイの多さがある気がする。純文学の大家であるのは間違いないが、昔風に言うなら婦人雑誌向けというか、世俗くさいエッセーが本屋で目立っていたからだ。啓蒙的というか人生論的なものが好きではないので…

文学について門外漢であるので、正直なところ彼の遺した作品群がどのようなものであったかは知らぬのだが、僕の偏りがちな頭の中では、とにかくそんなイメージなのである。

そして今回取り上げたエッセイももちろんその類のような気がするし、そうであるからこそ手にした。どんな事書いてるんだろう、ってさ(もちろん僕が個人的に最近恋愛論に傾斜ぎみなのも大きく作用しているだろうが)。

『恋愛とは何か』という本は、彼が恋愛について書いた四つの覚え書から成るエッセイである。題はそれぞれ
「愛の生理」、「恋愛する男の心理・女の心理」、「男性研究」、「愛の技術」だ。
いつ書かれたものは本書の中では明らかではない(図書館で調べればわかるのかもしれないけど、面倒なんでご勘弁)。とにかく「昭和」的だ。今読むと少々保守的な気がするのはやむえないか。女は肉体関係を好きな人間としか結ぶことはできないが、男は可能だ、みたいなね。

でも、なかなか興味深いのは上記の例(男は好きな女以外でも肉の関係が可能である)にある感じで、けっこう冷やかな感じをお持ちなこと。
あなたは他ならぬ彼に対して恋愛をしているのか、それとも恋愛自体に恋い焦がれているのか、よく考えなさい、とか何度も恋愛を疑わせるようなことを言うし、こんなこともいう。

…ぼくは技術のない恋愛、かけひきのない恋愛を信じないのです。
(…中略…)
今までの多くの恋愛論はこうした技術よりも、ただ二人の信頼とか、二人の意志を説く例が多かったのですが、そこには人間のもろさ、弱さをやや軽視している点があります。(pp.132-133)

とか、安易で生ぬるい恋愛論に拘泥することはなく、極めてリアリストである。

そんな彼の彼の文章の中で、唯一おもしろかったのは
一つ目の「愛の生理」だった。

アガペー的な話ではなくて、エロス的な話。すなわち「肉」の関係について考えているのである。
恋愛が純粋に発展していけば、「ダフニスとクロエ」のように肉体関係へたどりついてしまうだろう。しかし、その肉の関係とは、「かなしみ」を伴うものだ、という結論を導きます。

エロス(性の世界)とはそれ自身でかなしい――(p.30)


というのは、なんともかなしく素敵な答えでしょう。
説明はまだまだ続くのだが、しかし少しばかり眠たいのでここまで。

でもやはりエッセイではなくて小説をよまなくてはいけないね。
posted by より at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 遠藤周作